金城真喜子が書く父の想い出

2013年10月10日に父金城裕はなくなりました。一般的には無名の人ですが空手の世界では戦後の空手会を牽引した人物として、また多くの著作物を

残した人として知られています。

子供である私からみてどんな人物だったのかを記録して残したいと考えました。

 およそ半世紀前、墨田区にあった父の部屋はピースの香りがしていました。多忙を極めた父は、幼かった私をよくインコのように左肩に乗せて仕事をしていて、父が本棚に手をやったり座ったりするたびに不安定な座り具合になってそれはそのまま遊び感覚でした。父の動きが止まってつまらなくなるとつかまっていた耳をひっぱります。すると父は私を抱きしめ、天井に投げあげて落ちてくる私を受け止め、頬ずりして私の希望に応えました。

来歴

 金城裕は1919年2月14日に沖縄県首里市に金城慎康、ツルの次男として生まれました。母ツルのお腹にいる時に慎康がアメリカに出稼ぎに行き、ツルは異国で子供を産む気になれなかったため沖縄に残りました。諸事情が重なって父と子が会うことはありませんでした。

 女学校を首席で卒業したツルは、女手ひとつで前妻の子ふたりと実子ひとり、さらに母親の世話をしていたと聞いています。悪さばかりする実子の裕を厳しくしかり、時には竹の棒でたたいたとも聞いています。父によれば、母は前妻の子をきびしくはしつけられず、夫不在の不安やつらさを自分にぶつけていることもあるようだったので、抵抗せず打たれるままでいたとのことでした。7歳からはじめた空手に夢中になったのは、もしかしたら空手を習っているときは親に甘えることのできない孤独感から解放されたからではないか、空手を教えてもらっている先生に父親像を重ねていたのではないかと、大人になった私は考えています。

 私の記憶に残る父は好奇心に満ちた眼をした表情豊かな人でした。パチンコ屋さんに行った時、隣の台にいた人のキャラメルを食べたけどお父さんの顔が怖かったみたいでなにも文句を言わなかったよ、と楽しそうに家族やお弟子さんに自慢げに話していました。

 貧乏時代に借金取りが家に来て、お金を返すまでここにいすわると啖呵をきって座っていたが、だんだん眠くなって居眠りするので、たびたび父が起こしたが眠気をがまんできなくてついに帰ったというはなし、結婚した頃に電気工事の得意なお弟子さんがいて電信柱から電気をひいてお風呂をわかしたというお気にいりのエピソードもありました。

 私の母、英子もそれらの記憶は楽しい想い出のようで、おとうさんは徹夜が得意でよかったとか、あの頃は自分の家にお風呂があるうちは少なかったからといたずらを共有した友達のように笑いあって、そんな時の母はさっぱりとした魅力がありました。

人生を支えた読書

 本を読むのが好きだったので私にもよく本を買ってくれましたが、『長嶋選手ものがたり』『月光仮面』『世界のふしぎ』『世界偉人伝』などで今思うとほとんどが男の子向きのものだったような気がします。中でも父の好きなトロイの遺跡で知られるシュリ―マンや世界共通語をつくったザメンホフが収録されている『世界偉人伝』はぜひ読ませたかったシリーズのようでした。薄い青に銀がまぶしてある大人っぽい表紙の偉人伝を読み私は野口英世、キュリー夫人、ライト兄弟の生き方に感激しました。

 

 少年期に結核で数年療養していたことがあって、読書はたぶんその頃に身についた習慣でした。私が学生時代にプロレタリア文学の小林多喜二の本を読んで感銘したとはなした折、検視した医師の名前も覚えていたし、文学部の学生でもあまり読まない黒島伝治の作品も読んでいたので、その読書量におどろかされました。

海外との関わり

 どのような経緯かはわからないのですがアメリカの豪華客船の機関士だったリチャードさんという方に空手を教えていたことがありました。月に一回くらい来て横浜に停泊してその期間中に教えにいくのです。リチャードさんが来るという知らせが届くと我が家は華やぎました。私は父が話す船のなかのできごと、ものすごく大きなカップで船員さんがミルクを飲んだとか、食事にこんな大きなお肉が出たとか、クリームがたっぷりかかったアップルパイがおいしかったというたあいのないエピソードが楽しかったから。母にしてみれリチャードさんからいただくお礼は当時借りていた家の家賃の一か月分だったので安堵感から明るい気分になったのでしょう。

 また、仲のよかった異母兄弟で5歳上の兄がシカゴにいたこともあって、アメリカに親しみを覚えたのかもしれません。幼いころにはなればなれになって暮らすことになった兄は変わり者だが物欲のない人だったと聞いています。姪の私を含む三人姉妹にもいろいろな贈り物をくれました。美しいディズニーの本、おしゃれな箱に入ったチョコレート、クラッシックレコード、様々な本、そして大学の学費も出してくれました。兄はたびたび多額の送金やプレゼントをし、弟は月に一冊か二冊の本を送るだけというバランスの悪さであったにもかかわらず、互いの信頼関係はずっと続きました。考えてみるとふたりはギブ アンド テイクの感覚が欠如しているところがそっくりでした。一方通行で与える側になっても与えられる側になっても気にならないのです。

 15年くらい前だったか東京の武道館で空手の大会が開かれました。私のいる観客席よりずっと遠くにいた父が外国の方と話しをしているようだったので、何語かなぁと近くへ行ってみるとお互いに自分の国の言葉で話していて、身振り手振りでも空手話が通じるらしく楽しげでした。父はものおじしないタイプでした。

 友人知人の協力もあったのだとは思いますが、70歳を超えた頃から海外との接触が増えました。それには日本に来た折に稽古場や道場をかしてくださるお弟子さんがいたり、私の姉や妹が連絡役をしてくれたことが大きな助けとなったのだと思います。

 70代半ばに癌になり、回復した時にこれからは空手評論家になると宣言していたのですが、オーストラリアの空手家マッカーシーさんと出会ってオーストラリアに空手の巡回指導に行きました。広々とした土地を車で回り、知り合いの家に立ち寄って自由に冷蔵庫を開けて食事をしたり、というのびのびしたつきあい方が気性にあったらしくて、元気に帰国しました。

時がすぎて

 私が大学に行く頃から、同じ年代のほとんどの人がそうでああるように自分のことで忙しいくなってしまって、父との接触は少なくなりました。父が80歳を過ぎて体力が弱り、病院に同行することがあってふたたび話す機会ができました。病院の帰りに、車の中から改造社の文字が眼に入ってきたので、私が「あのカイゾウシャ?」と聞くと「そう」と答えました。父と私はあこがれるものが似ていました。

 気を遣わずにすむ自分の娘だったので、雑誌に載せるための写真撮影をたのまれました。練習の段階でシャッターを切ると、「まだ練習だと言っただろう、本番じゃない」と言われましたが、私にしてみれば本番だろうと練習であろうが良いのを撮りたいわけで、そこらへんはなかなか理解してもらえませんでした。いずれにしても道場に入るのはものすごく久しぶりでなつかしくもあり、撮影後お弟子さんたちと床に座ってお茶を飲んだのは新鮮でした。

 数年前のこと、私が実家に行った折、玄関にたくさんの赤いバラの花が飾ってありました。母に聞くと、父が吉野さんのお父様に50年くらい前に借りたお金を返したら、貸した本人はもういないし、昔のことだからとお返しにバラを送ってくださったとうれしそうにしていました。吉野さん(医学博士)は日本医科大学の空手部時代によく我が家に3~4人で遊びにきていました。医学部の学生さんだったためか、私の体が小さいので「4歳?」と聞くのです。私が「6歳」と憤慨していうのがおもしろいらしくて、しばしば同じことを言って遊んでいました。

 2004年に出版記念パーティーを行い、その挨拶のスピーチで父が「今度もし、また本が出たら無料で皆を招待する」と言いました。実際に2007年に本が出ることになり、そのことが親子で気になりはじめました。でも高齢となった父が実際に動くことはもう無理だったので、娘3人で実行させてあげようということになりました。

 何人くらいのパーティーにするか問題でしたが、120人に決めました。父が宛名を自筆にしたいといい始め、それは墨を摺るところからはじまるので、発送するまでにとても時間がかかって、家族は参加者が極端に少なくなるのではないかと心配しました。が発送後、自分には招待状が来なかったが参加したいという申し出がいくつもあって結局は160人になりました。

 パーティーの2週間くらい前になって、父が「あの会場で160人も入るのか?」と聞くのでとても不安になりました。考えてみると、参加者の90%は体育会系の男性なので、なんとなく会場からはみでそうな印象です。当日になってみると、隙間がなくテーブルに近いためお料理もよく食べてくださってにぎやかでした。当然のことながら空手事情のわからない娘3人ではパーティーの実施には無理があり、研修会のメンバーが一生懸命ささえてくださいました。海外からも10人くらいお客様がきてくださいましたが、これは英語に堪能な姉と妹のおかげです。

残された写真

 写真というのは不思議です。小さな1枚なのに、それを見るとさまざまなことをリアルに思い出させてくれます。

 印象に残る写真の1枚に大山倍達さんとの対談のシーンがあります。この写真はおそらく1950年に創刊した『月刊空手道』(福昌堂の月刊空手道ではない)の記事に使ったものと考えられます。この時の大山さんの笑顔はすてきです。ここまできたことの充実感とこれからの抱負を語る表情に青年らしさが残っています。実際にお会いしたことはないのですが、どんな人であったかが伝わってきます。私が父のホームページを作る際にネットでさまざまなことを調べていると、大山さんの記録がたくさん出ていて私はそれらを読み、牛と戦った大山さんの様々な面を知ることになりました。大山さんの原動力になったものが理解できるような気がしました。

 有倫館時代の8人の写真も好きです。後ろに見える家もまだ戦後の貧しさが残っていて東京なのにどことなく荒れ地のようです。拡大してみると父の後ろのスーツのどなたかのネクタイはアメリカから送られたものらしい派手な柄ですから父がおすそ分けしたのでしょう。。写された6人の門下生はすがすがしく凛とした表情です。

 父が亡くなった後、三女の真弓が遺品の整理をしていると20枚以上の四つ切大のプリントが出てきました。若き日の父が演武をしている何枚もの写真に感じるものがあって、自分のためにもデータ化しようと考え、手順を考えているうちに気がついたことがありました。この写真には戦後間もない頃に、志を持ったっふたりの青年がいたことを表現しているということでした。

 人物がわかりやすいように、背景は空にしてコンクリートのようなものの上に人を乗せていますが、白い道着の動いている人物を写すのはかなりの技術が必要です。撮影者がどんな人生をおくられたのか、またどなたなのかが気になります。

 2013年12月に開かれたお別れ会では弟子さんの二人がお別れのことばを述べてくださいました。晩年にお付き合いの多かった山田泰広さんは、父がこどものような純真さを持ち続けたと述べてくださいました。最後の直弟子の篠田剛さんは父が富や名声は要らない人だったと、ともに過ごした日の想い出を熱く話してくださいました。

 亡くなった人を悪く言う人はいませんが、父は気難しいところがあり、容易に人に同調しないので嫌う方も多いのではないかと心配していましたが、実際にかかわりあった多くの方々から父は優しい人だったと聞いて私は心が安らぎました。ありのままの父を受け入れてたいせつにしてくださった人がたくさんいらっしゃるということがわかったからです。

2014年7月に三女の金城真弓に沖縄県文化観光スポーツ部から連絡がありました。空手発祥の地である沖縄に「空手道会館」を建設予定であるとのこと、2006年に沖縄県立図書館に父が寄贈した3000冊あまりの本と資料をそこに移転予定であること、家族に聞き取り調査をしたいとのことでした。

 亡くなった後も、様々なかたちで新しい世代に思いが伝わる、これはロマンチストだった本人の夢であったにちがいありません。父が晩年になって親しくしていただいた友人がいました。空手古書道連盟の藍原しんやさんは2018年夏に「空手古書展覧会」を開催の折、金城裕のコーナーをつくってくださいました。東京駅で会った時に急に父の具合が悪くなりおぶってくださったこともありました。

 嘉手刈徹さんは空手研究の中で父を紹介してくださっています。嘉手刈さんは父が沖縄に本を寄贈する際にご尽力くださった方でしたが、平塚の家に資料を調べにきてくださった時、クーラーが壊れ、汗だくで本を整理してくださいました。いつも誠実な対応をなさる方でした。

2017年3月に「沖縄空手会館」のオープニングレセプションがありました。招待されて出席し沖縄の空手界に貢献された先生がたのお話を聞いたり現在活躍されている空手家の演武を見ていると時の流れを感じました。

 

資料館のガラスケースの中に父の自筆原稿が展示されていました。そこには三女真弓の校正の赤い字もあって、机に向かっていた頃の父のすがたが眼にうかびました。